掛川深蒸し茶の掛川茶問屋みのり園

掛川茶を作る深蒸し茶茶問屋みのり園

掛川茶の茶畑へ車で5分。茶葉の生育をお茶農家さんと見守り、深蒸し茶を誕生させたみのり園。緑茶の深い味わいとうまみをお届します
みのり園創業者、故鈴木茂は掛川にて茶製造に永年携わってきました
みのり園創業者、故鈴木茂は掛川にて茶製造に永年携わってきました。
昭和13年、静岡県茶業組合から拝命され満州のお茶市場・需要の調査へ足を伸ばすなど、地元茶産業のみならず、静岡県全域、ひいては日本国の茶産業発展のために従事してきた創業者です。
鈴木茂は昭和20年代に東京に営業に出向くと、予想を越えるお茶の現状を目の当たりにしました。

一番茶の仕上げ茶のサンプルには黄色の葉(ギンバ)が目立ち、
都内の専門店では小笠(当時掛川が属していた)は上級茶にあらずと酷評をされ、
当時の上級茶産地としては、本山、川根、天竜、森などの山間地が評価されていたのです。

鈴木茂は摘採した時には緑だった葉がどうして秋以降に変色や変質するのか、東京農大の農学博士に教えを乞いました。 その農学博士から、「原因は茶葉の酸化酵素を完全に殺していないのでは」、「それを充分にするには蒸す時間と蒸気の量を多くすればかなりの効果が有るのでは」と助言を受けました。
そこで鈴木茂は試験や試作を始めました。
昭和20年代後半、掛川市内日東地区であり、富士東茶農協や山中共同(現中山茶業組合)八丸共同、カネ三共同、その後に菱東茶農協なども加わり、お茶の質の向上を目指した総合的な取り組みが徐々に広まっていったのです。

もともと肥沃でなかった掛川の土壌に対し「より上質な茶葉の年間生産量をあげていく、土壌や栽培方法の改善」に取り組みました。


茶水耕栽培に成功~ 鈴木茂のコメント抜粋
…丸二年間みんなが力を合わせて研究した成果がやっとあらわれたもので、毎月新茶摘みが出来るとは全く楽しいことだ。
根茶もかならず成功すると確信している。…
農学博士からの助言にもあったように、蒸し時間と蒸気の量の改良へもメーカーと協業して意欲的に取り組みました。
従来の浅蒸し茶は、蒸し機から出た蒸し葉は風で3~5メートルも飛ばされていましたが、深蒸し茶の場合は、水分の含有量が多いので、蒸し機の真下にポトポトと落ちる状態になりました。
これでは従来の製造工程ではなかなか水分が取り除けない、ということで、掛川市二瀬川の小島鉄工所と共同で、当時は蛇かごと呼ばれる回転する網の中に、その蒸し葉を流して粗揉工程での水分の除去の補助をすることにしました。それは現在でも応用されている技術となっています。
また同時に、蒸気を多量に発生させる為、また、ボイラーの火炉の火力を上げる為に、蒸熱調整機なる補助器具も開発されました。
それらの機械は、県内は元より狭山や三重県の大台町辺りからも引合いが来て、各地へ指導にも出向くことになりました。

当時は蒸し機から蒸気の漏れるのを防ぐ為に蒸し機の上部を布製の袋(南京袋)で覆い、また葉を送るシャフトを一度抜いては羽を調整し、従来は送る角度に設定されていたものを、逆ピッチに曲げて蒸し機内での葉の滞留時間を調整する対応を考えていました。
当時の蒸し機メーカー「宮村」や他社メーカーも、深蒸しの知識や概念が皆無で、鈴木茂はそれらのメーカーと激論を交わして製造する年月を重ねました。

当時他地区で、もし深蒸し茶を製造していれば、当然メーカーもその知識を有していた筈でしたが、メーカーは浅蒸し茶の製造の知識しか有していなかったことからも、未だその時点では他地区で深蒸し茶を製造していなかった事を示していると思います。

深蒸し茶は、水分が多く従来の荒茶の工程では時間が掛かり、当時の製品は現在の深蒸し茶には程遠く茶色であったので、鈴木茂は『茶は茶色なり』と開き直っておりました。
また蒸し機を高速回転にする為に葉が切れて細かくなり、当時のお茶の鑑定では粉が多くて全く評価されませんでしたが、これも『茶は見るものでは無く、飲むものである』と説明や説得をしていました。

昭和20年代から30年代半ば当時は、茶の定義として、「水色は黄色く薄い(金色透明と称していた)のが上質茶」とされていました。
そこに登場した濃緑色で苦味の無いお茶は、当時はまだ深蒸し茶の名称は無く、水でも煎出できたので水出し煎茶と称しており、業界では非常に異質で異論や反対が多く、認知されるまでにはかなりの時間が必要とされました。
深蒸し茶の 製造に試行錯誤を重ねようやく商品化が進んだものの、当時の静岡県では全く評価されず、掛川市や静岡市の一部の茶商さんや東京の一部の人にしか評価されていませんでした。
昭和40年代、菊川農協の茶業課に、鈴木茂の従兄弟の内田武なる人が茶業課長におり、その様なお茶の指導を懇請されて、菊川市牛淵の丸牛農協、同富田のカネ富茶農協で製造が始まり、その後、同西方の公文名茶農協にも深蒸し茶の製造指導に赴きました。

一方鈴木茂は、調整の度に熱いシャフトを抜く非効率を無くす為に、蒸し機を稼働している状態で、中の羽だけを簡単に調整できる可変ピッチ型の蒸し機を開発し、特許を取得したのが昭和48年。実に試験・試作を始めて四半世紀以上が過ぎていました。
ハンドル操作だけで角度や速度も調整することも可能になり、経験を積んだベテランでなくても、女性や若手でも操作が可能になり深蒸し茶の量産へとつながっていきました。

まだ試行錯誤の最中の昭和42年には深蒸し茶の研究会が正式に発足。(実際は昭和30年半ばには研究会は存在していた)
生産者と茶商、機会メーカーの三者との意味を込めた【三葉会】と名づけられ、研究がすすめられました。

この頃に、水出し煎茶から、現在の呼称である「深蒸し茶」へと呼ばれるようになったものと思われます。
このように、深蒸し茶の旅は、長く絶え間ない試行錯誤と研究・試作の開発の上にいろどられ、苦難の道であったとも言えるでしょう。深い緑の色、滋味深い味わいの裏には、秘められた濃厚な開発の歴史があり、みのり園では歴代園主はじめ従業員一同こうした深蒸し茶歴訪の旅を胸に、皆様へ大切に深蒸し茶をお届けしております。
掛川茶の茶畑へ車で5分。茶葉の生育をお茶農家さんと見守り、深蒸し茶を誕生させたみのり園からお知らせです
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